楽譜がなけりゃ音楽として演奏できねえ。言語として成立してなけりゃ小説とはいえねえ。と思う。

アンテナが低くて恐縮だが、つかれたさん経由で、ケータイ小説に関する以下のような記事の存在を知る。


ケータイ小説を理解できない人間は既に老害化しているという衝撃の事実
http://d.hatena.ne.jp/aerodynamik/20071108/p1


★「ケータイ小説に寛容である事がステータスになる時代も近そうだ」「のちに人はこう呼ぶでしょう。暗黒時代と」
http://d.hatena.ne.jp/yositune/20071109/p1


んーんーんー。
無論、俺の意見としては後者に大賛成。
全く新しい感性の文化を、老人が否定したがるのは、無論よくあることで、そうした否定された文化が後世のスタンダードになるのもよくあることなんだけど。
ただ、パンクにしろどんな新しい音楽ジャンルにしろ、「音楽」として成立するためには楽譜にできて演奏できることが当然の条件だと思うんですがね。
言語として、日本語として最初から壊れているモノは、やはり「小説」とは言えないと思うし、「文学のニューウェーヴ」だなんてとんでもないと思う。(そういう俺はDeepLoveとかパラパラめくっただけで挫折したクチなので、本来批評する資格はないのですがね(^^:)。
新しければ、もしくは既成の概念を超越していれば、それはニューウェーブで新たなスタンダードに成り得るのか。
そんなことはないだろう。目新しさでその時代にはもてはやされても、やがてゴミとして打ち捨てられ、二度と顧みられなくなった文化もたくさんある。もしくは、常識を打ち破ったことによって歴史に名は残っても、本気でそれが素晴らしいモノとして末永く愛され鑑賞されるかどうかは、また別の問題でもある。
エリック・サティは天才で、「ヴェクサシオン」は音楽の常識をぶち破る恐ろしい発想の曲だが、本気で聞きたいと思う人間は数えるぐらいしかいないだろう。

ああ、ケータイ小説にも音楽にも詳しくない人間が、柄にもなく一席ぶとうとすると、こんな駄文になる(^^:
とりあえず、火群架々人さんが俺の言いたいこと全部言ってくれてるし。